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2018年3月13日 20:21

 

純粋な人は、そのひたむきさ故に「狂気」を秘めている
第13回大阪アジアン映画祭 雑記

文/河西隆之

大阪アジアン映画祭
純粋な人は、そのひたむきさ故に「狂気」を秘めている。ときにその狂気は人を畏怖し、ときにその狂気は崇拝を誘う。背反する2つの分水嶺は、一体どこにあるのだろうか。

3月9日(金)、第13回大阪アジアン映画祭が開幕した。シネ・リーブル梅田やABCホール、梅田ブルクなどを会場に、3月18日(金)にかけてアジア各国の映画を上映している。普段、なかなか見ることができないアジア映画に出会える貴重な場であり、セレクションや邦題の妙にも唸る映画祭である。

映画祭の楽しみ方は千差万別。特に大阪アジアン映画祭では、「訪れたことのない国の空気に触れたい」や、「大好きな国をもっと深く知りたい」などが挙げられるに違いない。もちろん、お気に入りの監督、俳優、スタッフに関連した作品を見たいということもあるだろう。1本、1本、噛み締める楽しみ方だ。

しかし、ここでもう1つ別の楽しみ方を提案したい。大阪アジアン映画祭はコンペティション部門や特別招待作品部門など、ある程度の作品数をまとめて紹介している。そしてそれらは何らかの視点を持って選定されている。要はその視点を自分なりに発見、解釈して楽しむのである。

とはいっても、紐解くための手がかりは欲しいところ。すると、作品選定を行っている暉峻創三プログラミング・ディレクターが公式パンフレットで、「ともすれば効率に走り、異質なもの、自分には理解し難いものを排斥してすませようとする傾向も見られる今日、~(中略)~多様性や共生の大切さ、そして信念や愛を貫くことの美しさを改めて人々に思い起こさせてくれる」視点を作品選定において共有していると記していた。

既に答えが出てしまっているように思うが、あくまでこれは視点の1つ。暉峻プログラミング・ディレクターによれば、自分が思いもよらなかった作品通しのつながりを教えてもらうことも多いという。偶然か必然か、何かの意思を持って作品は集まってくる。それは多くの作品が同時代に作られているため、アジア情勢を反映した共通項が浮かび上がってくることも関係あるのかもしれない。

今回、6作品しか見られなかったが、今年の大阪アジアン映画祭のコンペティション部門は、「純粋=ひたむき」がゆえに生きづらい人々を描いている作品が多かったように思う。

パンツ泥棒』の主人公サムは性衝動を抑えられないが故、生き方を失う。『青春の名のもとに』の少年・張子行と代理教員の葉若美は愛を求めたが故、自分を失う。『仕立て屋 サイゴンを生きる』の仕立て屋の娘ニュイは夢を追いかけたが故、家族を失う。『ひとりじめ』のララとユディスの高校生カップルは恋に夢中になったが故、相手を失う。『私を月に連れてって』の李恩佩は才能を信じた故、自らの命を失う。短編オムニバスとなる『傷心わんこ』では出会いを求めたが故、関係性を失う。


純粋な人は、そのひたむきさ故に「狂気」を秘めている。その狂気は理解しがたい行動を伴い、畏怖され、喪失を生み出してしまう。しかし、6つの作品は喪失だけを描いているわけではない。そこには救いがある。彼ら/彼女らには常に支えになる人がいるのだ。「たとえ世界が気づかなくても、自分だけは君の才能を信じている」(『私を月に連れてって』)と訴えるように、信じ続けてくれる人が。

話は頭に戻る。――ときにその狂気は人を畏怖し、ときにその狂気は崇拝を誘う。背反する2つの分水嶺は、一体どこにあるのだろうか。

『仕立て屋 サイゴンを生きる』でニュイの母は娘にこう諭す。「ダイヤモンドの原石は磨かなければ輝かない」と。彼/彼女らは原石だ。歩み寄り、理解し、受け入れることで磨き上げられ、純度が高ければ高いほど輝きは美しさを増す。畏怖と崇拝の分水嶺は信じてくれる人がいるかどうかではないだろうか。

異質なものを受け入れることで、それらが本来持つ魅力に気付くことができる。今年の大阪アジアン映画祭はそう言っているように思えた。大阪アジアン映画祭はまだ開催中だ。1本、1本を噛みしめるとともに、複数作品を見ることで得られる楽しみも味わってほしい。