mono-logue

2014年12月26日 18:22

 

第27回東京国際映画祭草紙 その3

文/須見登志美

無性にジャカルタに行ってみたくなってしまう
『太陽を失って』

tiff_kantoku.jpg上映後のQ&Aに登壇したラッキー・クスワンディ監督(右)とプロデューサーのサマリア・シマンジュンタックさん(左)
 東京国際映画祭のプログラムをチェックしていて、絶対見ようと心に決めていたのが「アジアの未来」部門に出品された『太陽を失って』だった。2年前、大阪アジアン映画祭でテディ・ソエリアットマジャ監督の「ラブリー・マン』(11年)に魅せられてていたので、同じジャカルタを舞台に、インドネシア期待の若手ラッキー・クスワンディ監督がどんな作品を撮ったのかとても楽しみにしていたのだ。

 結果は予想以上に面白かった。自分らしくありたいともがく女性たちの生き方を通して、今のジャカルタの横顔が描かれている。『ラブリー・マン』同様、ムスリム社会で生きるゲイの主人公が登場するのだが、映画祭上映時に本国では公開できるかどうか未定であった『ラブリー・マン』に比べ、(多少の編集はあったにせよ)既に国内のシネコンで公開を果たしていた本作は、ソフトで洗練されており、多くの観客に映画を届けるための配慮が感じられた。

 アメリカに次ぐ世界第4位の人口を背景に、アジアにおける経済的重要性を高めているインドネシアは、国民の9割がムスリムといわれている。政宗分離ではあるものの、社会生活規範としてのイスラム教の影響力は強く、女性やセクシャル・マイノリティに対する社会的制約や差別は大きい。それぞれに生きづらさを抱えている20~40代までの4人の主人公を全員女性(そのうちの40代の2人はゲイ)にしたことで、インドネシアが抱えているジェンダーやセクシャリティの問題が分かりやすく浮き彫りにされている。

 映画は、それぞれの女性たちのある一晩に起きた出来事を、微妙な繋がりを持たせながら並行して描いている。そこには、真っ白で大きなショッピングモール、外国産の食材しか出さない高級レストラン、そこに集う高級ブランドで着飾った人々など、西欧化されガラスの中でキラキラとまばゆく輝くジャカルタと、昔ながらの露天や屋台、公園や道路に溢れる人々、場末のホテルの安っぽいネオンサインなど、蒸し暑い空気と喧騒にあふれ、滲んでみえるジャカルタの両方が映し出されていくのだが、そのどちらにも自分の居場所を見つけられない主人公たちの現実がひしひしと伝わってくる。

 上映後のQ&Aによれば、そもそもこの映画は米国に留学していた監督が数年ぶりにジャカルタに帰国した際の衝撃から生まれたらしい。

 「8、9年前に帰国したときにモールに行ったら、モールがギリシャ建築様式になっていて、そこでインドネシアに昔からあるスナック、ルンピアが売られていたんですけれど、なんとチキンソフトロールという名前をつけられていたんですよ。おまけに、これはマーケットだと10セント位で買えるものなのに、3ドル位の値段で売っているわけです。とっても小さいくて、不味い。それなのに人々は喜んで高いお金を払う方を選んでいる。ちょっと外国のものっぽいから、という理由で人々に喜ばれているわけです。ジャカルタは何か別のものに変わろうとしているのですが、それが何なのか定まっておらず、とても不安定です。それゆえ、アイデンティティを失い、本来持っていた特有の精神性も失っているのです。それはジャカルタの町だけでなく、同時に人々についても同じだと思います」とクスワンディ監督。

 そういえば、「CROSSCUT ASIA #01 魅惑のタイ」に出品された『コンクリートの雲』のリー・チャータメーティクン監督も、米国留学から経済危機真っ只中のバンコクに戻った時に受けた印象が強烈で、それを映画にしたいと思って作ったのだ言っていた。偶然とはいえ、米国帰りの新人監督が、揃って同じような動機から自国に対する思いを映画にしているところが興味深い。

 地位や職業やお金の有る無しにかかわらず、ジャカルタに取り残された人々が感じる疎外感や孤独感を、おそらく米国から帰ってきた監督も感じたのであろう。この映画には、それでもジャカルタで生きていくこうとする人々と、全てを抱えて変わろうとしているジャカルタの町そのものに対する監督の優しい眼差し=愛を感じる。だから、あからさまなハッピー・エンドではないにもかかわらず、作品を見終わった後にさわやかな気持ちで心が満たされるのではないだろうか。それどころか、私などジャカルタの混沌と熱気を直接感じてみたい衝動にさえ駆られてしまった。

 ドキュメンタリーを撮り終えた監督の次回企画は、リゾートの島でおばあちゃん探偵が活躍するコメディとのこと。ぜひまた東京国際映画祭に出品してほしい。