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2014年5月13日 16:11

 

【老舗に訊く】伊場仙 十四代目 吉田誠男社長
江戸の老舗は血よりのれんを大事にしてきたんです

文/Avanti Plus

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 扇子と団扇の老舗、伊場仙さんの創業は、江戸時代の天正18(1590)年。徳川家康について、遠江国敷知郡伊場村(現在の静岡県浜松市)から江戸に入り、江戸の土木事業を手がけた。町が完成しつつある頃、団扇や扇子の製造販売と、浮世絵の版元となったのだそう。現在も江戸時代とほぼ変わらぬ場所、日本橋小舟町に店を構えている。

 江戸歩きへの興味が深まるばかりのアヴァンティ・プラスは、最近、「女子流江戸歩き」なる街歩きイベントのお手伝いを始めた。江戸歩きのとっかかりは、江戸の市井の人々を描いた時代小説には必ず出てくる日本橋。日本橋には、鰹節を核とする「にんべん」さん、海苔やお茶を核とする「山本山」さん、様々な商品を同系の店で営みその中の刃物を核とした「木屋」さん、和紙の「榛原」さんや「小津和紙」さん、浴衣、江戸小紋、風呂敷や手拭を扱う「竺仙」さん、そして団扇や扇子を核とする「伊場仙」さんなど、江戸から続く老舗が多く、いまも活況を呈している。

 そこここに見え隠れする江戸の名残り。そのひとつひとつに、当時の人々が生み出した、生活において大切なことが刻まれている。それは今を生きる私たちにも大切なことで、そんな符号を見つけ出す街歩きも楽しいのだが、老舗の方にお話をうかがうのがこれまた滅法楽しい。

 江戸時代。同じ商材を扱う店はたくさんあっただろう。その中で何百年という時間を現在へとつなげた老舗の方の話には、ほかでは聞けない深さがある。今回は、伊場仙の十四代目、吉田誠男社長にお話をうかがった。存外に照れやでいらっしゃるのは、江戸っ子だからということで。

伊場仙はなぜ老舗となったのか?

――創業からおよそ422年。商売を継がれる時、老舗のプレッシャーはありませんでしたか?

吉田誠男(以下、吉田) 次男でしたので、商売を継ぐなんて思っていませんでした。だから継ぐことには少々プレッシャーを感じましたが、老舗だからというのはありませんでしたね。

――単刀直入にお聞きしますと、なぜ伊場仙は江戸時代から続けてくることができたのでしょうか?

吉田 代々の経営者が、自分の代では潰したくないと思ったからじゃないですか(笑)。

――江戸時代から家に伝わる商売の奥義みたいなものがあるのでしょうか?

吉田 ありませんよ(笑)。後継者を、養子縁組する経営者も多かったし。江戸の老舗は血よりのれんを大事にしてきたんです。長男がいても的確な後継者がいれば簡単に挿げ替えちゃう。大伝馬町の繊維問屋さんなんかでも、長男にはお金を渡し、番頭さんが跡を継ぐケースがたくさんあったようです。まあ、私の祖父も養子ですし、私自身も次男ですし。

――事業の奥義は伝承させるものではないとしても、商売物に対する知識はないと困りますよね?

吉田 養子に入るというのは、そのうちの娘さんと結婚することなので、商品についての知識は受け継がれています。男は事業というか営業をやり、商品知識は女性が受け継ぐ形。

――ひとつの主力商品を守りながらも、経営はドラスティックに変えてこられたわけですね? それは商品への揺るがない自信によるものなのでしょうか?

吉田 揺らがないということはありませんよ(笑)。変遷はけっこうあります。売るものは変わらなくても顧客は変わりますからね。時代に合わせたデザインや売り方を考えながらやってきました。高度成長の時は企業向けの需要を見つつ、商品開発しましたし、経済の成長が鈍化してからは小売市場にポイントを移していきました。顧客の新陳代謝に合わせて、だいたい約30年前くらいからですかね。

――商売への目利きは、血よりものれんの考え方のたまものですね。

吉田 老舗じゃなくても、どこの会社もやってきたことですけどね(笑)。江戸時代、養子を後継者に据える店が多かったのには、ひとつ大きなメリットがあって、養子のほうがお金を借りる際に金利が安かったし、借入額も大きかったんです。かみさんがしっかり握っているから、養子なら浪費もしないだろうということだったんでしょうかね(笑)。

――伊場仙さんが団扇を売り出したのは、創業時に扱っていた和紙、竹を材料に、元禄の頃、団扇にして売ったら大ヒットしたからとのことでしたが、創業当時のお話をもう少し詳しくうかがえますか?

吉田 浮世絵の印刷技術は、江戸の天保(1830-1844)あたりから格段に進化し、安政(1854-1860)の頃に確立しました。団扇にはなにかの意匠がなければ売れませんので、その技術を利用して浮世絵を印刷したわけです。いまはうちしかありませんが、当時、この界隈には20数軒の団扇屋さんがあったそうです。きっと各店とも趣向を凝らしたデザインで競い合ったことでしょう。オリンピック前には、まだ他にも2~3軒の団扇屋さんがあったと記憶しています。

老舗を強固なものにしたのは失敗の経験値

――時代に即したデザインというのは誰が企画し、どういう流れで商品にしていくのですか?

吉田 いまでいう出版社と同じです。我々、団扇屋は版元として、こういう内容のデザインがウケるだろうと決めたら、それを絵師に発注するわけです。よく感違いされるのですが、(歌川)広重が「東海道五十三次」を出版したわけではなく、版元の企画によるものなんです。また浮世絵を出版するには、刷り師、彫り師、絵師への支払いや、版木を入手したり、管理したりする費用が必要となるので、ある程度、資金力がなければできません。絵師にはそれぞれ得意ジャンルがありますから、今ならカメラマンを指定するように、いうなれば編集会議を開いて企画を決め、美人画が流行れば豊國に、風景画が流行れば広重に、風刺画が流行れば国芳にと発注したわけです。

――いまはどのような方が、団扇絵を描かれているんですか?

吉田 デザイナーやイラストレーターの方ですね。展覧会やインターネットで発掘したり、持ち込みも多いです。

――インターネットですか! 現在販売されている団扇には、浮世絵とドラえもんなど、思いもよらないコラボレーションものもありますね。

吉田 風刺画だったり、戯画だったり、もともと浮世絵自体が思いもよらないものなんです。もし江戸時代に、ドラえもんがいたら、当時の方もきっとコラボしていたでしょう(笑)。我々は美術品を作っているのではなく、商品を作っているので、売れなければいけないわけです。そのためには、常に斬新なことをしなければいけないと思っていたし、そう教育されてきました。こうあるべきだというような、型にはめるような教えはありませんでしたね。

――しかし時代を経たり、人気を得たことで、それらは美術品や蒐集品にもなっていったわけですね。老舗というと伝統を守るというような保守的なイメージがありますが、全然違いますね。

吉田 うちだけではなく、鰹節屋さんも、海苔屋さんも同じです。商品は一緒ですけど、デザインや売り方など時代に即した形を取り入れていますよね。

――この辺りの佇まいは、子どもの頃と現在ではずいぶん異なりますか?

吉田 そうですね。ここで生まれたんですが、このあたりは戦時中、空襲に合わなかったので、この店も昭和初期の木造モルタル2階建てのまま残っていました。周りに大きなビルもありませんでしたので、2階の物干し台からは富士山や両国の花火も見えました。

――団扇や扇子に描かれる浮世絵の風景そのものですね?

吉田 はい。あの風景はここからの眺めです。

――うらやましい! 風景が一変したのは東京オリンピックの頃ですか?

吉田 そうです。うちは戦前の建物でしたので、当時のオリンピック特需もあり、昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートの7階建てのビルディングにしました。高度成長の始まりで、このあたりのビルに需要が出てくることも見えていましたので。このビルはさらにその後、1992年に建て替えたものです。

――吉田社長が子どもの頃のこの辺りの雰囲気をもっと詳しく教えて下さい。

吉田 生活自体は江戸時代とさほど変わらなかったのではないかと思います。夏になれば、浴衣着て、花火見て、金魚売りや風鈴売りが棒を担いで売りにきましたし、日本橋川ではハゼを釣って遊びました。
 昭和通りは、関東大震災後に火除け地として作られたグリーンベルトの上に作られた道で、うちも震災の翌日、浅草のほうから迫ってきた火に飲まれ、この辺一帯、焼けてしまったそうです。
 日本橋の店にはノウハウがあって、江戸は火事が多い町でしたから、皆、別邸を作っていたんです。それは江戸が燃えた時に避難する場所であり、商売を継続させる場所でもありました。住勤を一緒にしない。店も家もなくすと、物理的にも精神的にもダメージが大きいじゃないですか。うちはそれを渋谷に持っていました。
 また、ここらへんの問屋さんは、千葉県の市川や船橋に土地を持っており、そこに材木を蓄えていました。その材木は、火事の際に店舗をなるべく早く復旧させるために使うもので、そういうふうに常にリスク管理をしていたんです。
 日本橋に老舗が多いというのは、そういう備えがあったからだと思います。

――血ではなくのれんを重視して適材を後継者に選んでいく。リスク管理を怠らない。そして時代に則した新しいものを取り入れるなどの取り組みが、老舗をさらなる時代へと導いたのですね。

吉田 老舗というのは、成功より、失敗の経験値のほうが多いんですよ。たくさん失敗している。だからそれに対する準備ができるんです。

――老舗同士のネットワークはあるんですか?

吉田 東都のれん会というのがあり、月一回、勉強会を行ったり、ホームページやパンフレットを作ったりしています。親睦団体ですね。

――いまの売れ筋は?

吉田 団扇は、江戸の手ぬぐい柄とか、復古調の浮世絵とか、より和風なものに動きがあります。

――初めてお店を訪れる方にアドバイスをお願いします。

吉田 江戸らしい商品を取り揃えていますので、江戸の情緒や匂いを感じていただけると嬉しいです。首都圏中心ではありますが、三越、伊勢丹、歌舞伎座で購入していただくことができますし、夏には伊東屋、丸善などにも商品を降ろしていきます。今年は主要都市のスーパー「イオン」でコラボ商品を展開していきます。コラボ商品としては、歌舞伎座やユナイテッドアローズとの取り組みもあります。

――時代を読んでいますね(笑)! 

吉田 ははは!

*          *

 江戸時代、伊場仙さんの店があったのは、日本橋堀留町一丁目(現在はすぐ隣の日本橋小舟町。小舟町は江戸時代、鰹節商店の町だった)。江戸後期、堀留町には団扇屋が軒を連ねていたそうで、色鮮やかな界隈であったことが想像できる。現在の堀留児童公園は、当時は東堀留という名の川だった。そして、その岸辺は団扇河岸と呼ばれていたのだそうだ。

  • 関連情報
    落語家のナビゲーションで日本橋を歩き、途中、伊場仙さんをはじめとする江戸時代から続く老舗に立ち寄る 
    イープラス主催の人気イベント 「女子流:江戸歩き<日本橋編>」は、次回 6月7日(土)に開催されます。
    詳しくはこちら   http://eplus.jp/sys/T1U14P002126706P0050001